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平家盛公とゆかりのある寺社仏閣6選!

2022.12.15

家盛公ゆかりの寺社仏閣いろいろ。

宇久島には平家伝説として平家盛が壇ノ浦の戦い後に安住の地を求めて宇久に辿り着いたという言い伝えが残っています。

平家盛公は、宇久島に漂着した後、生涯島に様々な寺社仏閣を造ったとされており今でもその痕跡を辿ることができます。

今回はそんな寺社仏閣をまとめてご紹介します。

※今回ご紹介する家盛由来の寺社仏閣の出自については昭和42年6月発行の「宇久町郷土史」を基にご紹介いたします。

  • 八幡神社
  • 神島神社
  • 山本神社
  • 神崎神社
  • 東光寺
  • 毘沙門寺

八幡神社

平家盛公が島に来て一番最初に造ったとされる神社。宇久島最古の神社です。縁起書によると、家盛公来島時に山崎鳩峯八幡宮のご神体を鎮座し奉って代々宗廟の氏神として尊崇するようになったとのこと。鳩峯八幡宮は現在の石清水八幡宮のことです。

八幡神社は鳥居が非常に独特で、通常の鳥居の柱が円柱なのに対し、八角形になっています。これは宇久島でも八幡神社だけの特徴です。

舞鶴の欠け碗

平家盛公は助けて貰った御礼として漁師(海士)たちを御酒でもてなした。その際に使われた碗。この碗の欠片を持ち帰り神棚に供えると豊漁になるという噂が漁師の間で広がり、宴会の度に少しづつ漁師たちが齧ったことで欠け碗になったと伝えられている。八幡神社社宝。

神島神社

神島神社は宇久平港からも近い、平地区の総氏神として鎮座する神社です。

現在でも夏や秋には盛大に御祭りが行われ、神輿を担いだ若者が島を駆け巡ります。この神島神社の由緒沿革は昭和42年に発行された宇久町郷土史に詳しく書かれています。

家盛公建立とされており、京を発った家盛公は日向国(宮崎県)鵜戸宮へ立ち寄り、御分霊を奉戴勧請して宇久に着き、最初飯良角という場所に神殿を建立され、ついで向神浦(神浦郷向)、太田江郷に遷し奉ったが、偶然神殿の扉が開き、その中から火の玉が松原(現在の場所)へ夜な夜な飛来してきたので時の地頭へ申し上げたところ、「火の玉の飛んでくる処へ、神殿、拝殿、鳥居を御建立すること」と、現在の社地へ建立されることとなった。

祇園祭

7月第3週の土日で開催される神島神社のお祭り。「ちはや」と呼ばれる白装束に身を固めた若者が神輿を担ぎ、島民の無病息災を願って走り抜ける、宇久島夏の風物詩。神輿は約400kgもあり、これを8人で担ぐので非常に重たいです。

境内には様々な神社があり、うち城山神社は平家盛公の御分霊を本社境内社として祀っています。

山本神社

神社の由来に平家盛公建立とあります。市文化財課の方にお話しを聞くと、家盛の居城があった場所の裏鬼門にあたる神社かもしれないとのことでした。山の麓にあるため、高台にある境内から平戸へ向けての景色は風光明媚です。

神崎神社

誉田別命(ほんだわけのみこと)をご祭神とされており、八幡様の神社になります。

家盛公が山崎八幡宮(京都・石清水八幡宮)の霊体を守護神として奉じ、古くから飯良村に祀っていた「十二所権現」を合併して鎮守社とした、と郷土史にあります。

十二所権現というのは熊野三社(本宮、速玉、那智)に祀る12の権現のことで、三所権現、五所王子、四所明神とのことです。

宇久島には日本国内の様々な大きな神社の御霊が分祀されているなと実感します。

東光寺

未寺に西連寺、舜谷寺、長松寺を持つ、宇久島最古のお寺。口碑によると家盛公が開基したとありますが、家盛公来島早々に毘沙門寺を祈願寺と定め、この東光寺を先祖の菩提寺として建立したと思われます。曹洞宗です。

五島列島の中でも古い寺になり福江島の大宝寺とこの東光寺が唯一中世以前からの寺として五島列島には残っています。これはキリスト教布教などからくる廃仏毀釈令が五島列島全体へ影響したことによります。

境内にある釣鐘は二次大戦で没収されなかったため、当時から権力も大きなお寺だったことが伺えます。釣鐘の供出を免れた寺は他に西連寺、毘沙門寺などがあります。

また捕鯨文化が定着していた宇久島なので捕鯨供養の為の「鯨魂供養塔」が鯨で潤った島に対する敬意と御礼、鎮魂を込めて建てられています。

しかし、過去に二度の出火で貴重な文化財はほとんど消失してしまうという、島にとっても大きな喪失が起きた寺でもあります。

毘沙門寺

文治5年(家盛来島の2年後にあたります)家盛公開基とされ、元々あった小庵に、家盛公が常に持ち歩いていたと言われる沸像を島のご本尊として祀ったことから代々宇久家の祈願寺として現在に至ると言われております。

また、境内には12~14世紀頃の九州で中国大陸との交易があったことを示す薩摩塔が発見され、これは五島列島で初めてのことで同時代に毘沙門寺および宇久島は東シナ海の交流において重要な役割を果たしていたと推測されています。

いかがだったでしょうか?宇久島には寺社仏閣以外にも従者のお墓や武家屋敷の跡など、家盛公の系譜が宇久を統治していた痕跡が慎ましく残っています。

是非ご来島の機会にはそんな家盛公の足跡を訪ねてみられてもよいかと思います。

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